坂田塾で名を馳せた坂田信弘プロと、その坂田式ジュニア育成法を間接的に学んだ石川遼プロ。
この2人を結びつけたのは石川遼プロの父親の存在でした。
アベレージゴルファーだからこそ、自分の子供にゴルフを教えるためにしたこと、そんな親子の夢と坂田プロとの関係について確認していきたいと思います。
坂田信弘プロの育成法を石川遼に伝授した父親とは
ジュニア育成をライフワークにしている坂田信弘プロと、ジュニア出身の石川遼プロには意外な共通点があったようです。
坂田信弘プロは、世界的に活躍できるプロゴルファーを育成するために「坂田塾」を開校したのが1993年のことでした。
小さい頃からゴルフに携わることができなかった家庭環境が影響して、トッププロになれなかったと感じていた坂田信弘プロが、世界で活躍するような選手を育成したいと、私財を投じて作られた私塾が「坂田塾」です。
地域のゴルフ練習場やゴルフコース、また実際に指導してくれる地元のプロゴルファーの協力を得て、熊本、札幌、福岡、名古屋、神戸の順に開設されて、そこから32名がプロゴルファーとなりました。
古閑美保プロをはじめ賞金ランキングNO.1に輝くほどの躍進の元は、坂田信弘プロの独特な指導法にありました。
一方で石川遼プロが誕生したのは1991年、ゴルフクラブを始めて握ったのは小学1年生の頃です。
すでに坂田塾ができで3年が経ち、マスコミなどでもその指導法と効果について取り上げられることが多くなっていました。
その指導法に目をつけたのが、石川遼プロの父親だったわけです。
坂田信弘イズムを石川遼に伝えたのはアマチュアの父
石川遼プロの父親は地元信金に勤める金融マンで、ゴルフは趣味と言うよりも仕事柄たしなむ程度だったようです。
言ってみれば素人だったことから、当時ジュニア育成で名を馳せていた坂田信弘プロの指導法を素直な気持ちで受け入れることができたようです。
坂田塾ができるまでのジュニア育成法は、ゴルフをする上でのマナーやエチケットについて厳しくしつけ、大人のルールでゴルフ場を利用することが求められていました。
そのためクラブを振ることやボールの飛来などの危険度はもちろんこと、室内では帽子をとるとか大声を出さないと言った基本的なものを身に着けることが重要と考えていたのです。
その頃ジュニアにゴルフをさせる親たちは、プロを目指すのではなく社会人として育成するための道具としてゴルフをさせるような感覚で、その延長線上に学生アマなどの競技としてのゴルフがありました。
ところが坂田信弘プロが指導する坂田塾は、プロゴルファーになりたい子供だけを指導し、その努力を怠ると鉄拳が飛ぶような厳しいスパルタ教育で育てるような指導法でした。
石川遼プロの父親もプロを目指すのであれば厳しいトレーニングが必要とは感じたのでしょうが、首都圏には坂田信弘プロから指導を受けられる塾がなかったので、父親が指導法を記された本を読みながら教えていったようです。
坂田信弘の技量アップ法だけでは石川遼の夢はかなわない?
マスコミとの摩擦などなにかと話題の多い石川遼プロの父親ですが、プロゴルファー石川遼へのサポートという観点からは完璧なものがあります。
ネガティブな情報源には厳しい対応をすることもあるようで、一時は石川遼プロ以上に苦労したのではないかと思います。
中でもゴルフ界は特殊な世界なので、素人である父親は難しい立場だったと思います。
「トーナメント」を運営する側からすると、大きなサーカス団のように全員が全国を回って観客にプレーを見せることで成り立つと考えていました。
出場する選手が試合をセレクトするようだと、実際にスポンサーや放映権を持つテレビ局などと交渉している人たちには迷惑な存在になってしまいます。
ポスターを刷って配布してから、「今回は米国の試合に出場します」なんてことが続くと、さすがに人気選手とはいえ不満は高まってくるわけです。
単に坂田信弘プロの指導法を読んで技量アップしただけでは、石川遼プロが目指すグリーンジャケットには辿り着くことができない可能性がありました。
坂田信弘も同じ考え?海外で戦うために石川遼が準備したこと
もともと坂田信弘プロのジュニア育成法を参考にして、自分の息子にゴルフの手ほどきをしましたが、その本の内容をすべて真似したわけではありません。
アベレージゴルファーだったこともあり自分なりに一旦吸収して、それから小さな子供であった石川遼に合わせた指導法でゴルフを教えたそうです。
つまりゴルフが上手くなるためには個人差があって、プレイヤーとしての石川遼を理解できるのは自分しかいないと考えていたのでしょう。
また父親の考えと息子の考え方が同じ方向であっただろうことも間違いありません。
世界で活躍できるプロゴルファーになる。
そしてマスターズを制覇してグリーンジャケットを着ることが夢となっていました。
そのためにゴルフ以外に英会話にも取り組み、招待選手として米国ツアーに出場したときには、すでに英語でインタビューを受けられるように準備をしていたようです。
ただ、この英会話についても、坂田信弘プロは世界的なプロゴルファーの資質の1つとして挙げていましたから、石川遼プロの父親の発案だったのか、坂田信弘プロの本を読んで始めたのかは定かではありません。
石川遼の背中を押したことで坂田信弘の夢が実現する
自分と父親の夢であった海外ツアーの道のりは厳しいものでした。
日本ツアーでは「唯一スポンサーがつく選手」と、国内での石川遼プロの試合出場はまさに至上命令のような状態で、ゴルフ界ばかりかスポンサーや放映権を持つマスコミも、日本ツアーの欠席を許せる状況ではなかったと思います。
一方で「世界を制する可能性がある」ということで、懐の大きな企業から応援する機運も高まり、ゴルフ用品以外からもCM契約がついて資金の目処がつき、結果的に米国参戦の準備が整っていくことになります。
またマスコミは、全英・全米のような大きな試合に関しては結果を求めますが、米国ツアーを主戦場にすることには消極的だった時代です。
そんなときマスコミを通してゴルフファンに影響力のあった坂田信弘プロが、自分の夢でもあった世界進出に対して応援のコメントを出し後押しをすることになります。
坂田信弘も応援!石川遼への期待は父親だけではない
坂田信弘プロは石川遼がプロ入りするときの決断にもいち早く支持を表明していましたが、米国参戦についても早々に期待の声を挙げていました。
そもそも坂田信弘プロがアマチュア時代の石川遼を、いつから知っていたのかは不明ですが、高校生のときにツアーで初優勝したときのエピソードを語っていたので、それよりも以前に面識はあったのかもしれません。
当時マンデー(予選会)に落選した高校生の石川遼は、主催者であったマンシングウェアの役員に、予選会出場のお礼の挨拶に伺ったそうです。
そのときの対応のすばらしさから、もしも空きができたら主催者推薦で出すと言ってもらい、翌日欠場した片山晋呉プロの代わりに出場して、あの栄冠を手にしたわけです。
実はこの対応も坂田塾では当たり前のことで、どんな小さな試合の主催者や、わずかな時間でも利用させてもらったコース、関わったすべての人たちにはお礼の挨拶をし、後日礼状を送るようにしていました。
もしかすると石川遼プロの父親も、そんな坂田信弘イズムに感化されて、息子を指導したことが優勝に繋がりプロ入りのきっかけになったのかもしれません。
現在は米国ツアー来シーズンのシード権獲得を目指して、戦っている最中ですが、次に参戦するときにはグリーンジャケットを目指せるくらいの復活を期待したいと思います。
坂田信弘が指摘する石川遼の不安材料とは
坂田信弘プロは、石川遼プロのスイングについて腰の動きを指摘していました。
またインパクト重視のスイングから飛球線を求めるスイングに変貌していることに危機感を感じていたようです。
すでにその声は届かないところまできているかもしれませんが、親子で理解し合えた初期の頃を思い出し、当時に抱いた夢の実現に期待したいと思います。