女子ゴルフ元会長樋口久子と男子ゴルフ元会長松井功の関係

最終更新日:2017/09/11

日本ゴルフ界のレジェンド樋口久子プロ、日本女子ゴルフ創世記から牽引してきた、まさにパイオニアです。

一方で低迷する男子ゴルフ界を現在のように盛り上げたのが日本プロゴルフ会会長だった松井功氏です。

2人の数奇な運命を通して、現在のゴルフ会の隆盛へと繋がる道を確認していきたいと思います。

賞金女王樋口久子とレッスンプロの松井功は格差婚の先駆者?

少し長めのゴルフキャリアがあれば誰もが知っている樋口久子プロ、長いキャリアでは「日本人初」をほぼ手にした稀代の大選手で、若い頃は「チャコ」の愛称で親しまれた人気者でした。

晩年は日本女子プロ協会の会長として、現在の女子プロトーナメントの隆盛を造り上げたばかりか、裾野を広げるためのジュニアゴルファーの育成に尽力され、ゴルフ振興に尽力されて名を残した人です。

一方で松井功プロは、日本ゴルフ発祥の地である神戸で出生しますが、プロに合格するまでは河川敷の東京都民ゴルフ場、その後系列の茨城CCで研修生として過ごし、26才のときにプロデビューが叶います。
ところが戦績はいまひとつ、ローカルの大会で準優勝したのが最高位ですから、トーナメントプロとして稼いだということはなく、大会運営を支える専門競技委員(実質上の審判のような役割)として活動していました。

そんなプロゴルファーとして対照的な2人が結婚したのは樋口久子が27歳、松井功が31歳になる年でした。
ちなみに樋口久子は5年連続賞金王、松井功はレッスンプロをしていて、今で言うところの格差婚状態だったわけです。

樋口久子と松井功は戦後の混乱期を生き抜きプロへ

松井功は第二次世界大戦開戦の年、樋口久子は終戦の年に生まれ、ともに戦後の混乱期に育ってそれなりに苦労したと思いますが、樋口久子はキャディからプロゴルフ界の名門と言われる中村寅吉一門に入り、1967年女子プロ第1号選手なります。

デビューしたときのトーナメントは年間1回のみの開催で、しかも賞金は無しの苦しい状況からスタートしました。
現在の女子ゴルフ界の隆盛を思うと、まさに女子ゴルフ界を築いてきたパイオニアだったわけです。

名実ともにNO.1であり、美貌の持ち主という事もあって人気は高まるばかりでしたが、当時のスポーツ界は師匠と弟子の関係が厳しく、プライベートの時間もないことから、「お見合い」で男性を紹介されることになります。

人気者で世間からも注目される存在だったことから、紹介相手とはゴルフ場でラウンドしながらのお見合いという、ちょっと風変わりな状態で対面することになります。

ところがお見合いに現れたコースでレッスンプロをしていた松井功を見初め、なんと結婚することとなったわけです。

樋口久子と松井功は離別しても良好な関係

世紀の結婚かと思われましたが、樋口久子と松井功は10年後に離婚してしまいます。
結婚後も常に日本女子プロゴルフ界を牽引するトッププロとして活躍していたこともあり、またトーナメントのスポンサーの多くも「チャコのために」と引き受けてくれた恩もあり、離脱することは許される環境ではなかったのでしょう。

お腹にできた子を生むこともできず、結果的に2人の気持ちがすれ違い、別の道を歩くことになったわけですが、救いは憎みあうことなく別離を判断したことで、その後も幾度となく交わる2人の関係は良好なものとなっていきます。

樋口久子は離婚後もトッププロとして活躍していきますが、一方の別れた夫である松井功は名解説者として、またテレビを通してもレッスンが好評を得て、プロゴルフ界に新たなジャンルを築いた先駆者となります。

それまでは大会会場でプロの競技を観るコアなゴルフファンが中心でしたが、ゴルフブームとともにテレビでもレッスンが開始されたことで、それまでクラブを握ったことのない初心者も興味を持つようになり、現在の発展へとつながっていきます。

その広く伝える貢献度なども評価され、日本プロゴルフ界の第9代会長に選出されて、無事2期間を勤め上げました。

チャコと呼ばれた樋口久子とプロ活動を支えた松井功

今では恐れ多いとまで思われるほどの重鎮となった樋口久子ですが、昔の愛称は「チャコ」でした。
小さな頃母親が「ひちゃこ」と呼ぶところを縮めて「ちゃこ」と呼んだことから、家族の中では愛称で呼んでいたようです。

米国参戦するときにヒグチ・ヒサコでは発音が難しいということで、昔の名前であるチャコをミドルネームして、「ヒサコ・チャコ・ヒグチ」と名乗り、「CHACO」の名前で出場していました。
もちろん日本のメディアはいち早くチャコというネーミングを使い出し、いつしか誰もがそう呼ぶようになったそうですが、実際の女子ゴルフ界では「チャコ」と呼べる女子プロはいなかったとも言われています。

雑誌のカメラマンが岡本綾子と一緒のところを撮りたくて、2人に握手を求めたとき、樋口久子は「いやよ!なんで握手しなきゃいけないのよ」と断ったそうです。
すでに世代交代が進む女子ゴルフ界の中でも、パイオニアとしてのプライドが格下の相手と握手することを許さなかったのでしょう。
このプライドが松井功との別離につながったのかなと邪推する人もいるかもしれませんね。

ちなみにこの話には続きがあって、2人はともにゴルフ界を牽引してきた自負があるので、一定の間隔を取り合いながら信頼していたことを、後日の対談番組で明かしていました。

樋口久子と松井功が選択した互いの幸せには悲しい結末が

樋口久子は国内外で通算72勝、メジャーでも勝利を飾った女子プロ界の第一人者でしたが、松井功との婚姻関係の破綻の原因は、そのタイトなスケジュールによるスレ違いとコメントを残しています。

確かに日本ゴルフ界を牽引しながら、米国ツアーに10年間も挑戦していて、家庭を振り返るような環境にはなかったようです。
一方で、樋口久子は家庭に入り子育てを希望していたとも報じられていて、特に母親としての「こども待望」が決定的な原因だったとも報じられています。

傷心の中で変わらずトーナメントに参戦し活躍をしていましたが、新しいパートナーとめぐり合い念願の子供を授かることができました。

ところが樋口久子自身が後年コメントしているように「人生最大の失敗は子育て」だったそうです。
つまり待望のこどもは授かりましたが、実際には子育てに携わることはできず、反抗的なこどもとの溝ができてしまうことになります。

こどもを望んで松井功との別離を決断したのであれば、なんとも悲しい話と思います。

樋口久子と松井功はゴルフ界の両輪として走り続けた

時は流れて樋口久子は女子プロゴルフ協会を牽引する会長職に就くことになります。
一方で松井功も男子プロの日本プロゴルフ協会の会長職に就き、ゴルフ界を牽引していくことになります。

女子プロ界は空前の隆盛期を迎え、宮里藍選手を始めとするスター選手が次々と生まれていきます。
また樋口久子が米国で成し遂げたように、後輩たちが海外参戦して女子ゴルフ市場は活況を呈していました。

一方で男子プロ界は、AON(青木・尾崎・中嶋)以降に時代を動かすほどのスター選手が生まれてこないことから、海外トーナメントの隆盛に比べて下降線を辿っていました。
そんな中で精力的に広報活動を行っていた松井功が会長職に就任します。

ビッグタイトルもないレッスンプロの松井功が会長になったのですから、ゴルフ界は天変地異の大騒動になる予感はありました。
さらにトーナメント専用の別団体として日本ツアー機構が設立されて、男子ゴルフ界は2重・3重の混乱を生むことになります。
そんなとき救世主となるハニカミ王子と称された石川遼選手が登場し、新しい時代が幕開けしていくことになります。

結果的に樋口久子も松井功もゴルフ界ではよきパートナーとして、ゴルフ界の両輪としてゴルフ界の発展に寄与していくことになります。

偶然が重なり合った樋口久子と松井功の関係

松井功氏は会長退任後もゴルフ解説者として活躍され、またツアー機構の副会長として青木会長のサポート役もこなしていました。
一方で樋口久子氏は現役時代の成績とゴルフ界の発展に寄与したことから、2003年には世界ゴルフ殿堂入りを果たしたゴルフ界のレジェンドでもあります。

偶然が重なり知り合った2人が、激動のゴルフ界を牽引してきた偶然に不思議な力を感じざるをえません。