プロアマ問わず誰もが憧れる舞台、それが日本オープンゴルフです。
正式名を日本オープンゴルフ選手権と言い、1927年の第1回大会から歴史を重ねて、男子プロ公式メジャー大会の中でも最高峰の大会と言われます。
その舞台となった開催地はどんなゴルフ場なのでしょうか。
テレビで見て一度はプレーしたいとか、当地を訪ねてみたいと思った方もいるのではないでしょうか。
そんな夢の舞台、日本オープンゴルフ開催地の紹介です。
日本オープンゴルフの概略と開催地の決定
日本オープンゴルフは日本ゴルフ協会主催の公式競技です。
その日本ゴルフ協会はアマチュアゴルフを統括する団体なので、アマの大会にプロの参加を認めているのが基本スタンスです。
その名の通りプロもアマも男女別に参加できる、まさにオープンの大会なのです。
この日本ゴルフ協会が主催する大会が公式競技、いわゆる日本のメジャー大会です。
男子では日本オープンゴルフや日本プロゴルフ、女子では日本女子オープンゴルフなどがありますが、世界の四大メジャーと混同するためメジャーと言う言葉は通称扱いです。
日本のプロアマにとっては誰もが欲しがる名誉あるタイトルであり、日本オープンでは過去に数々の名勝負が繰り広げられ、テレビの向こうに広がる開催地のコースに、興味を持たれた方も多いのではないでしょうか。
開催地の決定は日本ゴルフ協会の理事会で決定されます。
普段テレビ観戦をする大会では、スポンサーの冠を頂く大会がほとんどで、開催地についてもスポンサーの意向が大きく反映され、これらの大会は公認競技と呼ばれます。
日本オープンの開催地は2開催先まで決まっていて、開催が決まった時からコースの改造や準備が始まります。
全米オープンでは5開催先まで決まっていることでも分かりますが、主催者やプレーヤーにとって特別な意味のある大会なのですね。
日本オープンゴルフに見る開催地のコース設定と変遷
第1回の日本オープンゴルフは1927年の5月に、横浜の程ヶ谷カントリー倶楽部で行われました。
6170ヤード、パー70で行われた記念すべき大会にはアマチュア12人、プロが5人出場し、アマの赤星六郎がトータル309のスコアで優勝しました。
この時代はアマが圧倒的に強く、所属クラブを持つ実業家とキャディーをしながら職業プロを目指す関係からスタートしています。
ただアマの優勝はこの赤星六郎ただ一人で現在に至ります。
翌年の大会からはプロが勝ち続け、日本オープンゴルフ最多6回の優勝を誇る中村留吉などを輩出する時代に突入します。
もちろん道具もボールも現在とは違う時代ですが、中村プロはクラブ作りも学びヒッコリ
ーの時代からスチールシャフトに替えることも自分で行っていました。
ドライバーで200ヤードの時代から用具や技術の進化に伴い、コース設定が重要になり、ベントグリーンとフェアウェイが高麗芝の多い日本のコースでは、グリーン周りとフェアウェイラフを深くすることでショットの正確さを求め、それが可能な開催地を選ぶのが基本になっています。
第64回の小樽カントリー倶楽部では、オールベントの為、グリーン周りを短く刈ることで海外などのコース設定に近い環境を作れた稀なケースもあります。
日本オープンゴルフの最多開催地やコースは?
日本オープンゴルフの最多開催地は東京ゴルフ倶楽部の7開催です。
第2回の日本オープンゴルフ黎明期から支えてきた当倶楽部は、日本人の手による初めてのコースとして1913年に東京駒沢に誕生しました。
その後、埼玉県の朝霞に移転、世界情勢が不安な1940年には秩父に二度目の移転を行い現在に至ります。
朝霞のコースでは、時の大リーガーのベーブ・ルースがプレーしたことも記録に残る名門コースであり、プロゴルフ協会設立や芝の開発などに大きな役割を果たしてきました。
現在も36ホールの全組キャディ付き、歩いてラウンドするゴルフ本来のスタイルを守り続け、距離はないものの全てのゴルファーの挑戦意欲を掻き立てる人気コースです。
ゴルフコース単体の最多開催地では、西の名門、廣野ゴルフ倶楽部の5開催が一番多く、戦前戦後にかけて幾多のプロの挑戦を受けました。
昭和7年開場の18ホールのコースは、1939年の「ザ・ナショナル・ゴルフレビュー」において世界のゴルフ場の7位にランクされた記録が残ります。
この時の東京ゴルフ倶楽部の朝霞が86位だったことを考えると、ゴルフ後進国の中では特筆すべき評価でした。
東京ゴルフ倶楽部の設計者の名匠C・H・アリソンは、現地視察後わずか四日で設計図を書き上げたと言われます。
日本オープンゴルフの奇跡の瞬間を体感する記憶に残る開催地
日本オープンゴルフは最高の技術、集中力、そして強運の持ち主が栄光を手に入れます。
それは見るものにとって奇跡と呼べるほどの記憶としていつまでも残るものです。
1989年名古屋ゴルフ倶楽部和合コースで行われた日本オープンは、最終日の17番パー3ホールで、首位のブライアン・ジョーンズに一打ビハインドの尾崎将司のティーショットは和合の風でグリーン左のバンカーへ、グリーンに乗せたジョーンズ有利と思われましたが、尾崎のバンカーショットは、カラー付近に落ちて見事カップインしました。
バンカーからのチップインは珍しいことではありませんが、この状況で決めてくるプロの研ぎ澄まされた感性を目撃する記憶に残る瞬間でした。
和合の風と言われる日本屈指の難コースで知られる名古屋ゴルフ倶楽部は、今でもゴルファー憧れの開催地です。
また2009年の日本オープンは、開催地として埼玉県の武蔵カントリー倶楽部の豊岡コースで行われましたが、石川遼、今野康晴とのプレーオフを制し小田龍一がツアー初優勝をビッグタイトルで手にしました。
最終日の混戦が続くパー4で、小田のティーショットはチーピンとなり、1万7千人が詰めかけたギャラリーの中へ飛び込みますが、この球がいつも帯同していた奥様の肩に当たりボールはフェアウェイに戻る奇跡が起こります。
まるで映画のストーリーにもなるような劇的な舞台となった武蔵カントリー倶楽部・豊岡コースは、天然松が両サイドを固める林間コースで、102か所に及ぶバンカーがプレーヤーを苦しめる埼玉県屈指の人気コースです。
松山英樹や池田勇太など若手が活躍する日本オープンゴルフの開催地
かつて青木功や尾崎将司、中島常幸などが築き上げたプロゴルフの全盛期に睡魔に負けじと海外メジャーの活躍をテレビ観戦した方も多くいると思います。
現在はスポーツ科学と道具の進化により、科学的なトレーニングやジュニアの育成が行われ、圧倒的なフィジカルで海外と渡り合える選手も出てきました。
海外に拠点をおく松山英樹が2016年に日本オープンを制した開催地は、埼玉県の狭山ゴルフクラブです。
田園地帯でありながら雑木林の中を進む距離の長いコースとして知られ、松山英樹がパー5のラフからの残り230ヤードを3番アイアンでイーグルチャンスにつける、世界基準の力を見せつける圧巻のパフォーマンスを目の前で楽しめた人は幸せです。
アダム・スコットや石川遼、池田勇太などの良質の球筋を楽しめるのも、日本オープンゴルフだからこそ経験できる魅力の一つでした。
また2015年の日本オープンゴルフは、兵庫県神戸市の六甲国際ゴルフクラブ東コースを開催地として話題の多い大会となりました。
距離の長い林間コースはグリーン周りのバンカーが深く戦略性の高い名門コースです。
優勝したのは池田勇太の二連覇を阻んだ小平智でした。
奥様は復帰の噂もある古閑美保さんですが、六甲国際ゴルフ倶楽部と言えば、あの上田桃子もかつて門下生だった江連アカデミーでも知られ、多くの女子ゴルファーが巣立ったことでも知られます。
日本オープンゴルフ開催地で予約サイトを使えるゴルフ倶楽部
日本オープンゴルフ開催地のゴルフクラブは、どれも最高峰のプレーに見合う名門コースばかりですが、厳格な会員制のスタイルを守るゴルフ場がほとんどです。
そのため自分がメンバーか友人の紹介、同伴を基本とするシステムでは、気安くプレーすることができないのも実情ですが、予約サイトでも利用可能なゴルフ倶楽部もあります。
静岡県伊東市の川奈ホテルゴルフ富士コースは太平洋に面したシーサイドコースとして、世界のゴルフ場百選にも名を連ねる難コースです。
1952年の日本オープン開催地ですが、富士コースの16番から18番ホールへの上がりホールはアーメンコーナーと呼ばれる高い難易度でプロを苦しめてきました。
川奈ホテルの宿泊パックが利用できることから、「カワナ」の愛称で親しまれる難コースに挑戦できます。
それから第55回、第64回に二度の開催地となった小樽カントリー倶楽部は北海道で初めて誕生したゴルフ場で、石狩湾をのぞむ戦略的なシーサイドコースは今も変わらぬ人気です。
宿泊パックなどを利用して日本オープンの舞台を体感できます。
そのほか六甲国際ゴルフ倶楽部や片山津ゴルフ倶楽部などは、同じコースではありませんが、独特の雰囲気やコース形状などに触れることができます。
日本オープンゴルフを実感する開催地を訪ねましょう!
日本オープンゴルフはプロの極限の技と魂が激突するすさまじい戦場です。
そしてプロに限らず日本中のトップアマが終結する憧れの舞台です。
その舞台となる開催地には長く深い歴史が刻まれ、ゴルフを愛するものの誇りが存在します。
自分のプレーを楽しむのはもちろんの事、より充実したゴルフライフのためにも、ぜひ日本オープンゴルフの開催地を訪ねてください。