「ビジェイシン」と言うプロゴルファーを知っていますか?
タイガーウッズを抜いて世界一にも君臨したことがある超一流のプロゴルファーです。
プロゴルファー界では珍しく、栄光に包まれたアジア系のスパースター。
しかし彼には、アメリカツアーで活躍を見せる前に、オーストラリアンツアーとアジアンゴルフサーキットの2つのツアーから追放処分を受けました。
そんな光と影のある彼のプロゴルファー人生についてお話しします。
世界一のプロゴルファー ビジェイシン
ビジェイシンは、フィジーラウトカ出身のインド系プロゴルファーです。
彼は19歳でプロ転向したのち、世界各地のツアーを回りながら、長期間の下積み生活を経てきた選手です。
そしてオーストラリアンツアーとアジアンゴルフサーキットの2つのツアーから追放処分を受けた経歴の持ち主です。
30歳でアメリカPGAツアーのメンバーになり、1995年から1998年の間に、PGAツアーで53大会連続予選通過記録を樹立しました。
しかし1998年のマスターズで予選落ちをしてしまい、その記録がストップしてしまいました。
35歳で全米プロゴルフ選手権でメジャー大会初優勝を果たします。
2004年には、5年以上トップの座を守ってきたタイガーウッズを抜いて、世界ランキング1位になりました。
そして2005年に最年少でゴルフ殿堂入りを果たしたのです。
アメリカツアーだけで34勝、世界ではなんと57勝も上げている名選手です。
メジャー大会でも全米プロを2勝、マスターズで1勝とトータル3勝を上げています。
そんな輝かしい実績をたくさん持っている彼は何故追放処分を受けたのでしょうか。
ビジェイシン初チャレンジのオーストラリアンツアーからの追放処分
ビジェイシンは、アメリカツアーで上記のような成功を収める前に、オーストラリアンツアーとアジアンゴルフサーキットの2つのツアーから追放処分を受けているとお話ししました。
まずオーストラリアンツアーでは、色々な人やホテルなどから借金を重ね、それを全く返さなかったということで追放処分を受けたと言われています。
プロゴルファーは、ツアーの移動費、滞在費、プレー代と賞金をたくさん稼がないと出費だけがかさむのは事実です。
彼は幼いころ、家族6人で1部屋暮らしと決して裕福ではありませんでした。
8歳でゴルフに出会い、トムワイスコフのレッスン書をお手本に練習を積み、17歳でフィジー最強のゴルファーと言われるまでになります。
そしてプロとしての成功を目指しオーストラリアンツアーへと旅立つのです。
しかし現実はそれほど甘くなく、フィジーの英雄もオーストラリアンツアーでは予選落ちが続き、資金が底をついてしまったのです。
そこから新しいスポンサーを探し、資金を得て挑んだのがアジアンツアーでした。
ビジェイシンが次に挑んだアジアンゴルフサーキットからの追放処分
オーストラリアンツアーでの追放処分後、何とかゴルフで夢をつなごうと戦いの場をアジアに変更したビジェイシン。
1984年のマレーシアPGA選手権でプロ初優勝を飾り、アジアンツアーでようやく実力が開花されてきました。
しかしここでも彼を辛い現実が襲い掛かります。
アジアンゴルフサーキットでは、2年間の追放処分を受けてしまったのです。
原因は、同伴競技者に過少申告を指摘されたスコア誤記によるものです。
協会はそれを重大視しました。
普通のスコア誤記では失格になることはあっても、追放処分になってしまうことは大変珍しいことです。
よほど悪質だったのかもしれません。
彼は最後まで無実を主張しましたが、結局それは認められませんでした。
汚名を着せられてしまった彼に残された道は、プロゴルファー断念という道のみ。
しかし実はこの一件、24年後の2008年に誤解が解け名誉回復され、同年にはアジアンツアーの名誉メンバーにも選ばれることになります。
あの時彼の主張が通っていたら、彼のプロゴルファー人生はどう変わっていたのでしょう。
追放処分のビジェイシンを救ったのは
フィジーの英雄からスタートし、夢いっぱいに挑んだ海外ツアーで2度も追放処分を受けたビジェイシン。
普通の人であれば、どん底過ぎて自信を失い、自暴自棄になってしまうでしょう。
しかし彼は、どん底の時期もゴルフを止めず、努力を続けてきたのです。
そんな彼の姿を見た支援者が、クラブプロの職を紹介してくれたことで、メンバーへのレッスン、クラブの修理、コース整備などゴルフで生計を立てられるまでに復活しました。
それでも彼はプロゴルファーとして活躍する夢を諦めなかったのです。
1987年にはクラブプロを辞め、南アフリカのサファリツアーに挑戦しました。
同時に欧州での経験を積むために、夏季にはクラブだけをもってエジンバラへ行きました。
昼は練習に明け暮れ、夜は滞在費を稼ぐためナイトクラブの用心棒として働きました。
過去と同じ経験はしまいと、借金をしないように、夜10時から午前4時までナイトクラブで勤務し、仮眠後、午前9時からプレーと練習をする日々を送っていたと言います。
こんなにも苦労してきた選手が日の目を浴びないはずがありませんよね。
1988年にナイジェリアオープンで優勝を果たし、それをきっかけに自信と資金を得て、現在のように人生が大きく転換したのです。
ビジェイシンの信条は「年齢は単なる数字」
若いころに2度の追放処分を受けたビジェイシンが世界一になったのは41歳の時です。
彼の信条は「年齢は単なる数字」とだけあって、41歳で全米プロ選手権2勝目、45歳で世界選手権優勝など、メジャー、賞金王、世界ランキング1位、世界殿堂と年齢に関係なく最高のステータスを手中に収めました。
世の中年ゴルファーの皆さん、ビジェイシン曰はく、
「加齢は老化ではなく、経験を付加した進化」
なのです。
年を取ると飛距離が落ちる、体力が落ちるなど悩んでいる方もいるかもしれませんが、経験を生かしたゴルフで若者を圧倒させることができます。
タイガーウッズや松山英樹が努力する天才と言われていますが、彼の努力も度肝を抜きます。
彼のアメリカでの拠点はPGAツアー本部のあるフロリダ州ジャクソンビルです。
その理由が、ツアーが経営した世界一の練習施設があるからです。
試合会場でも日没まで練習に没頭し、周りには、彼はいつ寝ているんだ?
いつ休んでいるんだ?
と思われるほどのハードワーカーなのです。
苦い経験から育ったチャリティ精神
ビジェイシン選手は、決して人気の高い選手ではありませんでした。
追放処分と言う暗い影の存在もありますが、彼自身が不器用な性格で、話し上手でもないし、サービス精神も旺盛なタイプではないからです。
しかし芯の通った彼の性格は別のところでしっかりと出されています。
それは社会貢献やチャリティ活動には非常に積極的なところです。
1993年全米プロ会場で、身体障がい者のファンにサインと記念写真を求められ、笑顔で快諾したのち、最も大切にしている練習時間を削り、1時間もゴルフ談話をしたそうです。
また2004年にはフロリダ州を襲ったハリケーンの救済基金のため、アメリカ赤十字に約1000万円を寄付しています。
彼の自宅もその影響で浸水被害を受けたので、次の試合を欠場したのですが、何よりもまず最初に彼が行ったのは、寄付だったのです。
スマトラ島沖地震や、ルイジアナ州を襲ったハリケーンでも、いち早く寄付をしました。苦労を重ね、そして誰かに助けられてきた経験が彼をそうさせているのかもしれません。
性格上目立った活動はしないのですが、徐々に彼のチャリティ活動は知られるようになり、フィジー国民栄誉賞を受賞したり、アジアンツアーの名誉メンバーに選出されたりと、彼自身が認められるようになりました。
偉大な選手のバックグランドを知ること
ゴルフのスイングや技術などを学ぶことも良いですが、偉大な選手たちのバックグランドを学ぶことも大切です。
どうやって彼らがとてつもないメンタルを持っているのかを知るきっかけになります。
バックグラウンドを知ることで、ツアー観戦を見る目も変わってきます。
そして何よりも、同じ境遇にはなれませんが、どう自分のメンタルを鍛えるべきなのかが見えてくるでしょう。